2008年春発刊「環」より(藤原書店)

六十八年の赤い糸
加藤登紀子

 よりによって卒業が一九六八年だったことが、すべての偶然を決定付けた。
 六十二年に東大に入学し、六十五年に歌手デビューした私は、二年の留年期間を経て六年目でやっと卒業。
 その卒業式が学生によってボイコットされると知ったのは、卒業式の前日だった。
 一晩悩みぬいた挙句、私はジーンズ姿でボイコットのデモ隊の中に入る決心をし、当日のデモ姿をマスコミは一斉に報道することになった。
 そして三月の末、その記事を見た藤本敏夫(当時全学連副委員長)と出逢うことになる。
 この世界のあちこちで若者を燃え上がらせた『六十八年』を遠い花火として、ではなく、我が身のこととして受け止めることになった、それが運命のはじまり。
 その年の藤本は、私と出逢った後、三度の拘置所生活を送る。
 パリ五月革命を受けた六月、御茶ノ水駅周辺を学生が埋めつくした神田カルチェラタンで、二十三日拘留。七月に出所し、三派全学連委員長となった藤本は八月にはアスパック闘争で逮捕され、その後、十月二十一日国際反戦デーで防衛庁に突入した指導者として、十一月七日から翌年の六月十六日まで八ヶ月、獄中の人となった。
 ベトナム反戦で一気に盛り上がった学生のうねりは、街頭デモから大学封鎖へと高まり、政治的な力としてよりも、時代の空気として過熱した。
 翌一九六九年一月に安田講堂に篭城した学生が敗北した時、風船がしぼむように、その空気は沈静化し、藤本が出所した六月には、学生運動は、惨めな内ゲバ時代を迎えていた。
 生命がけの修復を試みながらも不可能と判断した彼は七月六日を最後に学生運動と決別する。
 リーダーとしての無力を胸に、東京を離れた彼は、「地球に土下座して、ゼロからやりなおす」というエコロジストとしての方向を打ち出した。
 以後、二〇〇二年に他界するまでこれが彼の生涯の、そして私と彼との共通の想いでありつづけた。
 六八年から四十年、あの花火は一体、どこへ向かったのかを見つめる時、様々な地球曼荼羅が見えてくる  六八年八月、私はソ連演奏旅行で、自由を求めるソ連の若者たちと出逢った。横浜からナホトカに向かう船の中で、モスクワからエストニアへの夜行列車で、黒海沿岸の街スフミで・・・。ソ連という鎖から逃れようとする若者たち。
 その後、私が歌うことになる「百万本のバラ」はこの年、ソ連で生まれている。
 ラトヴィアの独立運動の先頭に立っていたライモンズ・パウルスが作曲、その後グラスノスチを進めたゴルバチョフの片腕だったヴォスネセンスキーが作詞。
 六八年、チェコの「プラハの春」を圧殺したソ連の戦車が、八九年にラトヴィアに侵入した時、ライモンズ・パウルスはソ連の戦車の前に立っていた。そして、ラトヴィアは独立を手にし、ソ連は崩壊した。
 六八年の花火は、八九年に着地したのだ。
 大切なことは、六八年、世界の若者が共通して求めていたのは、アメリカでもなくソ連でもない、自由と平和だったこと。 アメリカでベトナム反戦と黒人解放の叫びを上げた若者も、東欧やソ連で、自由を求めた若者も、とても似通った気分を抱いていた。
  「反戦」「反権力」「反国家」 そしてジーンズと長髪、気ままなお祭り、誰のためでもない自分自身のための歌・・・。 日本でも時代の空気は同じだった。 新宿西口広場を群衆が埋めつくし、ギターで自作のメッセージを歌うフォークシンガーたちが次々と登場した。
「私たちの望むものは
 決して私たちではなく
 私たちの望むものは 私でありつづけることなのだ」
 岡林信康のうたった歌詞は日本の若者の気分を言いあてている。
 その後、若者たちはどこへ向かったか。
 政治的であることを嫌悪し、私的であることに価値を置く世代。そこから経済至上主義の日本が大手を振って歩き出した。
 四十年たった今、ロシアも中国もインドもそしてアジア全域がグローバリズムに組み込まれ、地球環境は危機に瀕している。
 六八年、パリで、チェコプラハで、日本で、そしてベトナムで、若者たちが傷つきながら求めた「戦争のない平和な世界」 「ソ連でもアメリカでもない、もうひとつの世界」は、今もまだ、マイノリティーのままだ。 けれど、地球上に生きるものとしてのゼロからの革命は、六八年がスタート地点であったことを忘れないでいたい。